ぼんやりとした手触り

日記のようなもの

2018/06/02 ダザイを裏返した男

 「ラブストーリーは突然に」なんて歌があるけど、ラブに限らず、物語的なものはいつだって突然降ってくる。平和で安定した私の生活をかき乱し、感情の渦を巻き起こし、絶えずふわふわ浮いているような感覚にさせるもの。そういう物語的なことに、嵐のように攫われた。

 今日、あまりにも文学的な男に会った。私はその男の虜になった。恋じゃない。愛じゃない。純粋な興味だ。彼という人間が持つある一種の悲劇性が、負の感情に穢されることなく、美しいまま存在していることに、私は驚嘆した。

 生まれ落ちたイエを信じ、祖先の言葉を信じ、世間とのズレを全く疑わず、子どものように無邪気に振る舞う彼。大恋愛の末、失恋し、それでもまだ愛を疑わず情熱的に生きようとする彼。彼は、人間ならば誰しも持つ血と地に縛られる悲劇性を、そっくりそのまま受け入れて、浄化してしまっていた。

 「人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に於いては欠けているところがあるようでした」

 これは、太宰治の『人間失格』の一節である。あの男は、葉蔵のような悩みを持っていない。道化を演じる必要もない。由緒ある血と地を信じ、特権階級の人間であることによる世間との乖離をつゆにも思わず、周囲からの愛を当然として生きている。

 彼は、自分の生を絶対視できる人間だった。あまりにも文学的な生を持っているのに、文学を必要としない男だった!

 初めて彼に声を掛けられた時、なんとなく既視感があった。今ならわかる。あれは、太宰の本を読んだ時の感じだった。あの男は、太宰を裏返したような男だから、そう感じたのだ。実際彼は、生まれも育ちも太宰と同じだった。

 「この愛が受け入れられたなら、彼女と心中しようと思った」と彼は言った。憂いも絶望もない、明るい笑顔だった。

 そのような無垢な魂を、永遠に保って欲しいと、私は思った。

 

2017/11/29

 ああ、君よ、見えないのか。

 ゼミ室に降り積もっていく、真っ黒な沈黙を。

 「いいですね」という先生の言葉が、形を変えて迫ってくる。

 マズい発表をした者には、刺々しい蛍光色の黄色を、

 良い発表をした者には、カステラのような柔らかな黄色を、帯びて、

 「いいですね」という言葉は、私たちの沈黙の中を通り過ぎる。

 

 レポートを褒められるたびに、舌に広がる焦げ臭いニラの苦み。

 斜め前の女が、調子に乗りやがってと青い息を吐いて大あくび。

 右横の男が、むかつくと濁った緑の舌打ちをする。

 濃くなっていく真っ黒な沈黙が、私の喉を締め上げる。

 

 ゲコゲコと、カエルのように鳴いたら楽か。楽だ。楽だろう。

 でも、ないたところで仕方がないから、黙って焦げ臭いニラに耐える。

 

 ああ、君よ、本当に見えないのか?

 こんなにも世界は、お気持ちで溢れているというのに!

2017/11/18 雑踏と優しさ

 1日中、家にいた。昨日の労働疲れがとれない、天気が悪い、寒いの三拍子が揃ったので、動く気になれなかった。買い物に行けない日のためにと、レトルト食品を買った2週間前の自分を褒めたい。

 

 特に出来事もないので、最近感じたことを話そうと思う。

 萩原朔太郎の作品に、『群衆の中を求めて歩く』という詩がある。長いので全部は引用しないが、「ただよふ無心の浪のながれ/ああ どこまでも どこまでも この群衆の浪の中をもまれて行きたい」(萩原、同上)と、「都会の雑踏の中につかのまの平安を求め」つつも「漂泊」する運命にある若者の姿を読んでいる詩だ(十川信介、『近代日本文学案内』)。

 雑踏の中には平安がある。誰も私を意識しないがゆえに、私自身も自分を意識しなくて済むという安心がある。肩書も生まれも、自分の在り様も気にする必要のない気楽さ。服は着こんでいるが、心は裸でのびのびと過ごせる。だから私は時々、都心の雑踏の中に出かけて、人波に揉まれながら散歩をする。

 先日、地方出身の友人と話していたところ、「人混みは嫌いだ」と言われた。「人混みと雑踏は違う。人混みはお互いが意識し合うため窮屈だが、雑踏はお互いが無関心だからむしろ楽だ」と説明したが、うっすらと笑われて終わった。別の友人も同様の反応をした。この感覚は、共有できないものなのか?

 渋谷のスクランブルで、梅田の地下街で、博多の駅で……それぞれの町で、人は各々の目的を抱えて歩く。全員が1つの方向へ行く満員電車や、全員が1つの楽しみを求める店の混雑とは違い、雑踏は無方向で無目的だ。雑踏は、意図せず生じるものである。

 意識して関わることだけが優しさではない。偶然や無関心もまた、優しさの1つの形だ。「ほっといてくれ」という言葉を、拒絶と受け取らないでくれ。

2017/11/16

  「日記は毎日書くものだ。1行でもいいから、とりあえず毎日書け」と言われた。だから、ノリで始めたこのブログを、気まぐれで再開する。

 

  さて、美味しいものは脂肪と糖で出来ているらしい。ハンバーグ、ラーメン、ドーナツ……自分の好きなものを思い浮かべると、確かに脂肪と糖で出来ている。美味しいから脂肪と糖で出来ているのか、脂肪と糖で出来ているから美味しいのか。後者だろう。

 脂肪と糖は美味しいが、カロリーが高い。ここで、雑な考えをする。人間、カロリーをとらないと生きていけない。だから人体は、積極的にカロリーを摂取するよう、高カロリーの脂肪と糖を美味しく思うようにできているのではないか。

 何を言いたいかというと、私はカロリーをとらなくてはならない。カロリーをとらなさ過ぎて、体にガタがきている。思い返せば、朝は食パン2枚とコーヒー、昼はうどんとコーヒー、夜は刺身とコーヒーという生活を続けていた。体の半分がほぼコーヒーで出来ている。実によくない。

 なので今晩は、学校の食堂でハンバーグ&コロッケ定食を食べた。1000キロカロリーあるご飯だ。しかし、定食を食べる前までに、食パン2枚しか食べていなかったから、1日の摂取カロリーの目安には届いていない(20代成人女性の目安は、1800キロカロリー)。まあ、完食したし、目安量の半分は摂取したから良しとしよう。定食は美味しかった。脂肪と糖で、できている。

 学校からの帰路の途中に、小さな地蔵がいる。古いけれども、綺麗な地蔵だ。その前には毎日、プリンが供えられている。そのプリンがとても美味しいことを、私は知っている……。地蔵も、脂肪と糖をとらないとやっていけないだろう。

 とりあえず私は、当分、カロリーの高い食事を続けなければならない。

 

 

 

2017/09/09  ルール、善行、常識とやら

  夜明け前に、家を出た。バイトに行くためだ。休日は電車の本数が少ないから、いつもより早く行動しないといけない。眠たい。

 近所のアパートのごみ集積所に、透明な袋がぽつんと置いてあった。今日はごみ回収日じゃないのにと不思議に思って近づいてみると、ピーマンの切れ端や納豆のパックがみえた。袋の底に、茶色く濁った水が溜まっている。どうやら可燃ごみらしい。可燃ごみの回収日は、昨日だ。市が指定した袋じゃないから、回収されなかったのだろう。ひび割れたコンクリートの壁にもたれかかるように捨てられたごみ袋は、猫の鳴き声すらしない朝の静寂の中に、沈んでいった。

 休日の朝の電車は、人が少ない。向かいに座った三人の女性が、大声でおしゃべりしていた。誰かの不倫を、糾弾していた。右端の女性の口角から唾が飛ぶ。私の足元に落ちたそれは、シュワシュワと、しつこく床にこびりついていた。そうか、そうか……。

 

 誰一人煙草を吸わない街で肺を病む、そんな夢を見た。気が付いたら、目的地に着いていた。仕事の同僚が、最近は変なクレーマーが多いと愚痴をこぼしていたのを、ふと思い出す。同僚にとっては変な理屈も、クレーマーにとっては普通のことなんだろう。今日はどんな「変」な人がいらっしゃるのかなと、少し勢いよく、プラットホームに飛び降りた。

 

2017/08/22 怪我

 怪我をした。寝ぼけなまこで起き上がったら、パソコンのコンセントに足を絡め取られ、寝床の対角線上にある本棚にダイブした。額をぶつける。村上春樹が落ちてくる。しばらく、痛みに悶えた。電気をつけ、ぶつけたところに手を当てると、指先に血が付いた。朝5時から大騒ぎだ。

 

 頭を打ったからか知らないが、今日のバイトではよく噛んだ。ハイライトは、「かにょうでしゅ(可能です)」だろう。噛むにもほどがある。

 

来週は旅行だ。それだけを楽しみに、バイトに励む。