ぼんやりとした手触り

日記のようなもの

2017/08/21 衝動と悲哀

  今日はバイトが休みだから、遅い時間に起きようと思っていた。けれども、朝起きて時間を確認したら、5時だった。いつもと同じ時間。二度寝をする気にもならない。もうすっかり、体がバイトに慣れてしまった。

 

 本当は、1日ゆっくりと読書をして過ごしたかった。六畳の部屋のあちこちに、未読の本が積もっている。そばを通るたびに、ゆらゆらと揺れる本たち。バイトの行き帰りの列車の中で読もうと試みてはいるが、すし詰め状態の車内は、文庫本でさえ開くことがままならない。また、ほぼ毎日バイトがあるから、休日はやらなければならないことが多い。なかなか読書が進まない。今日もタスクがたくさんあった。

 

 掃除をしたり旅行の準備をしたり、その合間合間に、国木田独歩の小説を読む。独歩の小説は何回も読んでいるが、いまだに彼が見ていた「風景」がよくわからない。一体独歩は、何を見ていたのだろう。その片鱗を少しでも掴みたくて、繰り返し読む。

 独歩の『郊外』に、鉄道往生という言葉がでてくる。飛び込み自殺のことだ。明治の、鉄道が走り始めたころから、列車を利用した自殺はあったらしい。列車という、技術の発展が作り上げ、都市の発展に寄与した鉄の塊によってもたらされる死。ひどく哀しい死に思える。だからだろうか、山手線のホームで列車を待っているとき、ふと飛び込んでみたくなることがある。鈍く光る線路を見つめていると、バラバラに飛び散った自身の肉片を思い浮かべることがある。自分の内に渦巻く悲哀と屈託は、汽笛の音色に似ている。

 ふとスマホを見ると、誰かが電車に飛び込んだというニュースが届いていた。