ぼんやりとした手触り

日記のようなもの

2018/06/02 ダザイを裏返した男

 「ラブストーリーは突然に」なんて歌があるけど、ラブに限らず、物語的なものはいつだって突然降ってくる。平和で安定した私の生活をかき乱し、感情の渦を巻き起こし、絶えずふわふわ浮いているような感覚にさせるもの。そういう物語的なことに、嵐のように攫われた。

 今日、あまりにも文学的な男に会った。私はその男の虜になった。恋じゃない。愛じゃない。純粋な興味だ。彼という人間が持つある一種の悲劇性が、負の感情に穢されることなく、美しいまま存在していることに、私は驚嘆した。

 生まれ落ちたイエを信じ、祖先の言葉を信じ、世間とのズレを全く疑わず、子どものように無邪気に振る舞う彼。大恋愛の末、失恋し、それでもまだ愛を疑わず情熱的に生きようとする彼。彼は、人間ならば誰しも持つ血と地に縛られる悲劇性を、そっくりそのまま受け入れて、浄化してしまっていた。

 「人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に於いては欠けているところがあるようでした」

 これは、太宰治の『人間失格』の一節である。あの男は、葉蔵のような悩みを持っていない。道化を演じる必要もない。由緒ある血と地を信じ、特権階級の人間であることによる世間との乖離をつゆにも思わず、周囲からの愛を当然として生きている。

 彼は、自分の生を絶対視できる人間だった。あまりにも文学的な生を持っているのに、文学を必要としない男だった!

 初めて彼に声を掛けられた時、なんとなく既視感があった。今ならわかる。あれは、太宰の本を読んだ時の感じだった。あの男は、太宰を裏返したような男だから、そう感じたのだ。実際彼は、生まれも育ちも太宰と同じだった。

 「この愛が受け入れられたなら、彼女と心中しようと思った」と彼は言った。憂いも絶望もない、明るい笑顔だった。

 そのような無垢な魂を、永遠に保って欲しいと、私は思った。