ぼんやりとした手触り

日記のようなもの

2017/11/18 雑踏と優しさ

 1日中、家にいた。昨日の労働疲れがとれない、天気が悪い、寒いの三拍子が揃ったので、動く気になれなかった。買い物に行けない日のためにと、レトルト食品を買った2週間前の自分を褒めたい。

 

 特に出来事もないので、最近感じたことを話そうと思う。

 萩原朔太郎の作品に、『群衆の中を求めて歩く』という詩がある。長いので全部は引用しないが、「ただよふ無心の浪のながれ/ああ どこまでも どこまでも この群衆の浪の中をもまれて行きたい」(萩原、同上)と、「都会の雑踏の中につかのまの平安を求め」つつも「漂泊」する運命にある若者の姿を読んでいる詩だ(十川信介、『近代日本文学案内』)。

 雑踏の中には平安がある。誰も私を意識しないがゆえに、私自身も自分を意識しなくて済むという安心がある。肩書も生まれも、自分の在り様も気にする必要のない気楽さ。服は着こんでいるが、心は裸でのびのびと過ごせる。だから私は時々、都心の雑踏の中に出かけて、人波に揉まれながら散歩をする。

 先日、地方出身の友人と話していたところ、「人混みは嫌いだ」と言われた。「人混みと雑踏は違う。人混みはお互いが意識し合うため窮屈だが、雑踏はお互いが無関心だからむしろ楽だ」と説明したが、うっすらと笑われて終わった。別の友人も同様の反応をした。この感覚は、共有できないものなのか?

 渋谷のスクランブルで、梅田の地下街で、博多の駅で……それぞれの町で、人は各々の目的を抱えて歩く。全員が1つの方向へ行く満員電車や、全員が1つの楽しみを求める店の混雑とは違い、雑踏は無方向で無目的だ。雑踏は、意図せず生じるものである。

 意識して関わることだけが優しさではない。偶然や無関心もまた、優しさの1つの形だ。「ほっといてくれ」という言葉を、拒絶と受け取らないでくれ。